Sep 05, 2009

交通事故当該見舞いドンウルジュオトスプニダ

前の交通事故ゴルルダンハンことがあります。自動車と自動車の衝突事故でした。私は被害を受けた方がいました。軽い頸椎捻挫で2ヶ月近くヶ所の病院に通院しています。車に乗っているときに交通事故、当該被害を受けた場合、負傷、病院に一二回以上通院の場合は、見舞金が出てくるもので、お見舞いドンウルジュオトスプニダ。それまでにお見舞金の事を知らなかったので、びっくりしました。
自動車廃車永久抹消登録は、道路運送車両法第15条の規定による廃車手続きです。自動車が滅失、解体等したため、再利用できない手続きとなっています。永久抹消登録をすると、自動車の最大の登録に必要な抹消登録証明書の交付を受けることができません。永久抹消登録は、15条抹消とよく呼ばれることもあるそうです。
【萌える日本史講座】(2)豪腕の女帝と悲運のプリンセス(下)

 全くの偶然だった。斉明天皇の墓とほぼ確定した牽牛子塚(けんごしづか)古墳(奈良県明日香村)の調査終盤、土の中からひょっこり顔を出していた石を掘り下げると、巨石をくり抜いた立派な石室が現れた。「大田皇女(おおたのひめみこ)の墓に違いない」。研究者の多くが色めきだった。「斉明天皇陵の前に葬った」と日本書紀に記す孫娘、大田皇女の終(つい)の棲家(すみか)が永い眠りから覚めた瞬間だった。天武天皇の皇后として栄華を極めるはずが、20代前半で早世し、息子の大津皇子も政争の末の非業の死…。石室発見は、母子を見舞った万葉の悲劇を現代に伝える。(地方部・小畑三秋、奈良支局・川西健士郎)

 ■こんな足もとに

 「いくら前といっても、こんなに前だったとは」。日本書紀の記述通りの石室発見に、専門家も舌を巻いた。牽牛子塚古墳の正面はもともと平坦(へいたん)で、古墳らしいものは何もなかったためだ。

 「あと1週間ほどで調査も終わり」という平成22年10月中旬。古墳前の平坦部を念のために「ダメ押し」で調査したところ、石室が突然姿を現した。

 発掘調査は、幅2メートル、長さ15メートルほどの細長い範囲だけだったが、石室はちょうどそこに埋まっていた。調査前、現場担当者や報道関係者らは、何事もないようにズカズカと歩き回り、機材を置くなどしていた場所だった。

 「まさかこんな足もとに」。貴人の墓の上を歩くなど、とても「恐れ多い」ことだったが、石室の存在はそれほどだれもが予想していなかった。村教育委員会は急遽(きゅうきょ)「越塚御門古墳」と命名した。

 もし、発掘区域が数メートルでもずれた場所に設定されていたら、石室は見つからなかったことは間違いない。存在を誰にも知られないまま、調査は終わっていたことになる。

 「私のことを早く気付いてほしい」。大田皇女のそんな切なる叫びが聞こえてきそうなぐらい、今回の発見は偶然だった。

 ■微妙な姉妹関係

 「生涯、春の日だまりのようなあたたかさで人に接したやさしい女性だった」。

 飛鳥時代の女帝、持統天皇を主人公にした漫画「天上の虹」の作者、里中満智子さんは、作品のワンシーンで大田皇女について、こうつづっている。

 持統天皇にとって、大田皇女は生前、大海人皇子(おおあまのおうじ)=のちの天武天皇=の妻だった点でライバルだったともいえるが、姉として大きな心の支えだったのかもしれない。

 そのうえで里中さんは、大田皇女とともに、彼女が遺した2人の幼子にも思いをめぐらせる。

 大田皇女は、大海人皇子の妻になり、大伯皇女(661〜701年)と大津皇子(663〜686年)を生んだ。

 大伯皇女が誕生した前年の660年は、日本と友好関係にあった百済(朝鮮半島南部)が、中国・唐と新羅(朝鮮半島北部)の連合軍により滅亡。斉明天皇は百済再興を期して筑紫(福岡)に遠征した。大津皇子が生まれた663年は、唐・新羅連合軍との白村江の戦いが勃発(ぼっぱつ)した。

 2人が誕生した時期は、それぞれ波乱の運命を予感させるように世相が混乱していた。そして数年後、この姉弟を遺して大田皇女は亡くなった。

 ■母の亡きあと

 「宮廷で生きていく上で、母親の存在はやはり大きかったはず」と推測するのは里中さん。幼くして母を失った姉弟にとって、まさに試練が待ちうけていた。

 文武に優れ人望も厚かったという大津皇子は王位継承も期待されたが、父・天武天皇の皇后となった、のちの持統天皇が勢力を伸ばし、天武天皇が亡くなった686年には実子・草壁皇子に対する謀反の罪をかぶせて自害に追い込んだ。

 「ももづたふ 磐余(いわれ)の池に 鳴く鴨を 今日のみ見てや 雲隠りなむ」

 大津皇子が残した辞世。磐余の池に鳴く鴨を見るのも今日が最後。私は雲のかなたに去ってしまうのか−。処刑される自らの運命に覚悟を決めた心情が痛々しい。

 ■姉弟の愛深く

 その大津皇子をこよなく愛したのが、姉の大伯皇女だった。13歳で伊勢神宮に奉仕する斎宮となり、万葉集に記された6首はすべて大津皇子のことを詠んでいる。

 「二人ゆけど 行き過ぎ難き 秋山を いかにか君が ひとり越ゆらむ」

 謀反発覚の直前、大津皇子は姉に会うため伊勢に赴いた。このとき、大和に帰る大津皇子を案じて「二人でも困難な秋山を、どのようにしてあなたは一人で越えてゆくのか」と、弟の行く末を案じる。

 「うつそみの 人にあるわれや 明日よりは 二上山を 弟世(いろせ)とわが見む」

 姉の不安は、最も恐れていた形で現実のものとなった。自害した大津皇子の遺体が葛城の二上山(奈良県)に葬られた際に詠まれた。「うつそみ」は現世のこと。二上山を弟として見るしかないのか…、と悲痛の思いがひしひしと伝わってくる。

 ■ただひたむきに…

 「大伯皇女は一生、弟だけを思って生きたのでしょう。ひたすら大津皇子への愛に生きた一途な強い思いをもった女性。内には激しいものを秘めながら、目立たない人生を送った」と里中さんは話す。

 一方の大津皇子については「計算高いところが少な過ぎた。もっと根回ししていれば実権をにぎることができただろうに」とし、おおらかで裏表のない性格が災いしたとみる。

 権力闘争に明け暮れる宮廷内で、2人の姉弟はあまりにも純粋すぎたのかもしれない。

 万葉集には、2人の悲痛な心のひだがつづられている半面、母親の大田皇女について当時の文献は多くを語らない。

 それでも里中さんは「2人は母の深い家族愛を受け継いだはず。大田皇女もあまり表にでない、ひっそりとした人生だったのでしょう」。若くして悲運にさいなまれた姉弟の人生に重ね合わせ、そう推察した。

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